大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

横浜地方裁判所 平成元年(ワ)676号 判決 1992年6月18日

原告

道原京子

道原成和

道原靖人

右原告両名法定代理人親権者母

道原京子

道原清

道原アイコ

右原告五名訴訟代理人弁護士

坂井芳雄

兼子徹夫

海老原茂

被告

岩手県

右代表者知事

工藤巌

右訴訟代理人弁護士

木ノ元直樹

野村弘

平沼高明

右訴訟復代理人弁護士

加藤愼

主文

一  被告岩手県は、原告道原京子に対し金四四八〇万一三四九円、原告道原成和及び同道原靖人に対しそれぞれ金二七二二万一一七六円、原告道原清及び同道原アイコに対しそれぞれ金三〇〇万円並びにこれらに対する昭和六一年四月二三日から各支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、これを一〇分し、その八を被告の負担とし、その余を原告らの負担とする。

四  この判決は、原告勝訴の部分に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一請求

被告は、原告京子に対し金六〇〇〇万円、原告成和及び同靖人に対しそれぞれ金三二五〇万円、原告清及び同アイコに対しそれぞれ金五〇〇万円並びにこれらに対する昭和六一年四月二三日から各支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

本件は、岩手県立北陽病院(以下「北陽病院」という。)に措置入院中であった精神病患者I(以下「I」という。)が、昭和六一年四月一九日、同病院の治療の一環である院外散歩の途中に離脱し(以下「本件無断離院」という。)、同月二三日、横浜市内において金員を奪取する目的で通行人を刺殺した事件(以下「本件殺人事件」という。)について、右被害者道原直樹(以下「直樹」という。)の遺族である原告らが、北陽病院の設置者である被告に対し、国家賠償法一条一項に基づいて損害の賠償を請求した事案である。

一争いのない事実等

1  当事者等

原告京子は亡直樹の妻であり、原告成和及び同靖人は直樹の子であり、原告清及び同アイコは直樹の両親である(<書証番号略>)。

被告は、精神衛生法四条に基づき北陽病院を設置、管理している地方公共団体であり、同病院の院長遠藤五郎(以下「遠藤」という。)、医師小井田潤一(以下「小井田」という。)、看護士小山田勝憲(以下「小山田」という。)、看護助手前田敏夫(以下「前田」という。)、同菅原正勝(以下「菅原」という。)及び准看護婦田頭良子(以下「田頭」という。)は、いずれも被告の公務員である(<書証番号略>)。

Iは、被告によって自傷他害のおそれのある精神分裂病患者と認定され、昭和五八年一二月二九日、北陽病院に措置入院させられた者である。

2  本件無断離院及び本件殺人事件の概要

(一) Iは、昭和六一年四月一九日、北陽病院の作業療法の一環として、小山田、前田、菅原及び田頭の看護の下に他の患者二四名と共に院外散歩に参加していた際、エンジンキーをつけたまま右散歩コースの道路脇に停車していたライトバンに乗り込んで無断で離院した(<書証番号略>)。

(二) Iは、右無断離院後、列車を乗り継いで同月二一日早朝、横浜市内に到着し、かねてから盗みに入ろうと計画していた同市中区山手町の吉原方へ向かったが、大きな番犬がいたことなどから同人方で盗みをすることを断念し、同日昼ころから同区松影町所在のホテルの屋上で寝転んでいるうちに、ナイフで人を脅すか、殺すかして金員を奪うことを考えつき、翌二二日、自己の腕時計を入質した金で刃体の長さ約12.8センチメートルの剣型登山ナイフを購入した。しかるに、当日は眠かったため昼ころ同区松影町所在のホテルに投宿したが、北陽病院で常用していた睡眠薬がないこともあってイライラして眠れず、金持ちに対する憎しみの念がつのり、山手地区で通行人を殺害して金員を奪うことを決意するに至った(<書証番号略>)。

(三) Iは、同月二三日午前八時二〇分ころ、同市中区山手町二二四番地四の公道上において、金員を強取する目的で、信号待ちをしていた直樹の腹部、背部、胸部等を所携の登山ナイフで突き刺し、同日午後七時四五分ころ、搬送先の警友総合病院において同人を右腎貫通刺創による失血により死亡させて殺害した(<書証番号略>)。

二争点

1  遠藤ら北陽病院の医師等は、本件無断離院当時、Iが無断離院すること及びIが無断離院した場合本件殺人事件を引き起こすことを予見し得たか。

被告は、本件無断離院当時、Iは不完全寛解状態にあり、無断離院を窺わせるような症状は全く認められなかったばかりでなく、本件無断離院前二か月の間に実施された五回にわたる院外散歩の際にも無断離院の素振りは一切なかった上に、Iが本件無断離院に当たり使用した自動車はたまたま路上にエンジンキーをつけたまま駐車されていたものであったから、本件無断離院を予見することは不可能であった旨主張する。

また、Iが措置入院患者であるということは他人を殺傷する可能性があるということを必ずしも意味しない上、Iは親族に対し妄想に基づく復讐心を抱いていたけれども、他人に対して無差別な攻撃性を有していたわけではなく、過去に他人を凶器により殺傷したこともないから、Iが無断離院した場合、本件殺人事件のような殺傷事件を起こすことを予見することも不可能であった旨主張する。

2  本件無断離院及び本件殺人事件の発生が予見可能であった場合、遠藤ら北陽病院の医師等は結果回避義務に違反したといえるか。

原告らは、次のとおり主張する。すなわち、小井田及び遠藤は、院外散歩の実施に当たってIを治療的管理下に置くために、院外散歩の引率者である看護士らに対し、要注意患者であるIの看護を重点的に行うように指示するなど医師と院外散歩の引率に当たる職員との連絡態勢を整備、確立すべきところ、右連絡態勢が確立されていれば、本件無断離院は防止できたにもかかわらず、小井田らがこれを怠ったため本件無断離院が発生した。また、本件無断離院時に院外散歩に同行していた前田、小山田等の職員らも、Iを重点的に観察、看護すべきであるにもかかわらず右義務を怠り、Iを無断離院せしめたものである。さらに、本件無断離院後も、看護者らが早急に北陽病院や警察署に連絡し、かつ、遠藤らにおいて、東京・横浜方面の警察署にも連絡し、Iの捜索を依頼していれば、本件殺人事件の発生は防止できたから、遠藤らにはこの意味での結果回避義務違反も存する。

これに対し、被告は、患者につきどのような看護態勢をとるかは本来医師の裁量に属する事項であり、本件無断離院当時Iが不完全寛解状態にあったことを考慮すると、同人につき厳重な看護態勢をとることは治療上の見地から相当ではなく、また、作業療法時の看護士の人数も医師の裁量事項であるところ、患者二五人に対して看護者四名という本件無断離院時の看護態勢は精神病院においてはむしろ平均以上のものであるから、看護態勢自体に問題はなかった旨主張する。そして、小山田、前田らの観察、看護義務については、本件無断離院は、散歩の途中に患者の一人がたまたま体調が悪くなったことから、散歩の行列が縦に延び過ぎた際に起きたものであり、また、本件無断離院に当たり使用された自動車は、たまたまエンジンキーをつけたまま路上駐車されていたものであり、さらに、Iは看護士らの隙をみて素早く自動車に乗り込み、離院したものであるから、看護士らにおいて本件無断離院を防止することは不可能であったなどと主張する。また、本件無断離院発生後の警察署等への連絡・通報義務等については、北陽病院の職員らは必要な範囲で義務を果たした旨抗争する。

3  本件無断離院を成功させた遠藤らの過失と本件殺人事件の間に相当因果関係が存するか。

4  損害の発生と数額

第三争点に対する判断

一争点1(予見可能性)について

1  Iの経歴・治療経過等

前記第二の一の事実及び証拠(<書証番号略>、証人小井田潤一)によれば、以下の事実が認められる。

(一) Iは、昭和二四年七月二二日、岩手県北上市で出生し、昭和四三年三月高等学校卒業後、建具職人、牧童等として稼働し、昭和五一年ころからは東京の山谷、横浜の寿町、大阪の釜ケ崎といったいわゆるドヤ街を転々としながら、日雇い労務者として働くようになったが、この前後から社会的適応機能が著しく低下し、破瓜・緊張混合型の精神分裂病が進行し始めた。Iは、昭和五一年六月、東京都内で護身用に長さ約三〇センチメートルの短刀を所持していたことから銃砲刀剣類所持等取締法違反の罪で逮捕されて同年八月に罰金刑に処せられた。次いで、昭和五三年一二月には叔父のH方へ覆面をして押し掛け、金員を要求するなどしたほか、昭和五五年六月には、右H方の塀に「Hよく見ろ、これがお前達兄弟が北海道で流した朝鮮人の血だ。タコ部屋のウラミ」と書いた張り紙をし、庭に赤ペンキを撒いたり、叔父のT方の壁にも同じような張り紙をし、門柱等に赤ペンキをかけたりするなどの奇異な行動が見受けられた。また、昭和五五年四月ころからは窃盗をして生活するようになり、同年七月には窃盗罪で逮捕されて執行猶予付き懲役刑の有罪判決を受けたが、釈放後は従前と同様に窃盗を繰り返した。さらに、昭和五六年六月には、警察官から職務質問を受けた際、右警察官を崖から突き落としたほか、前記T方の風呂場に「朝鮮人の怨念、北海道のタコ部屋より」と書いた張り紙をして物置に放火したり、前記H方住居に侵入し、灯油を玄関先に散布した後、同内容のことを書いた紙片に点火し、これを右散布した灯油上に放置するなどして逮捕され、同五七年九月に右公務執行妨害及びHに対する脅迫並びにそのころ犯した銃砲刀剣類所持等取締法違反(刃体の長さ14.2センチメートルの登山ナイフ一本を携帯していた件)及び窃盗(合計二〇件)の罪等により懲役刑に処せられた。右裁判において、Iは精神分裂病による心身耗弱と認定され、八王子医療刑務所で服役していたが、出所前に精神衛生法による精神衛生鑑定医の診察を受けて親族等に対する被害関係妄想等の症状を有する精神分裂病と診断され、昭和五八年一二月二九日、満期出所と同時に北陽病院に措置入院した。

(二) 伊藤は、北陽病院入院当初はイライラ感、不眠を強く訴えており、発明妄想、親族に対する被害妄想及び復讐心も強い状態であった。

昭和五九年二月ころから右症状はやや軽減したものの、同年四月に小井田が主治医となり、それまでの閉鎖病棟における作業療法に変えて開放的かつ集団的な中央作業療法を行うようになると再び病状が悪化し、イライラ感を強く訴えるようになった。そこで、中央作業療法を中止するとともに、同年六月には攻撃性を抑制する向精神薬であるニューレプチルを七五ミリグラムから一〇〇ミリグラムに増量したところ、イライラ感やひそめ眉といった症状は軽減した。

昭和六〇年三月からは再び中央作業療法が開始されたが、Iは同年六月一七日、中央作業療法の実施中に、親族に復讐する目的で、エンジンキーをつけたまま病院内に駐車していた自動車を盗んで無断離院した(以下「第一回目離院」という。)。右離院後、Iは現金や飲食物を盗んだり、父親や叔父の悪口を書いたビラを貼ったり、叔父のK方へ行って同人を殴ったりしたが、右K方で警察官に保護され、六月二一日に北陽病院に連れ戻された。

帰院時、Iの症状は再び悪化しており、ニューレプチルが一三〇ミリグラムに増量されたほか、作業療法も閉鎖的な環境で行う病棟作業療法に変更された。Iの離院傾向はその後しばらく顕著であり、他の患者に対して「東京に逃げる」旨言い触らすなどの行動が見受けられたが、同年九月に実施された運動会の際に離院の素振りが見られなかったことから、病棟作業療法の中でも庭、グランド等における作業のようにやや開放的な治療が行われるようになり、昭和六一年二月からは病棟作業療法の一環としての院外散歩に参加させるようになった。Iは、右院外散歩の当初から五回目までの間は問題行動が見受けられなかったが、六回目である同年四月一九日の散歩の際、本件無断離院をした。

2  本件無断離院の予見可能性について

(一)  右一で認定した事実及び証拠(<書証番号略>、証人小井田潤一)によれば、(イ) 小井田が本件無断離院当時、Iに対し中央作業療法を実施せず、病棟作業療法の一環である院外散歩を実施するにとどめていた理由は、小井田が、Iには無断離院の可能性があり、要注意患者であると考えていたためであること、(ロ) Iは本件無断離院の約一〇か月前に現に無断離院した前歴を有するところ、右第一回目離院時においても、Iのイライラ感や集団への不適応等の症状は既に相当程度軽減していたのであって、第一回目離院は突発的な精神症状の悪化等に起因するものではなく、Iの被害妄想による継続的な親族への復讐の念と、自由になりたいという願望を動機として敢行されたものであって、小井田もそのことを了知していたこと、(ハ) 本件無断離院当時、Iのイライラ感や集団への不適応等の精神症状は二度にわたる薬物の増量及び作業療法により軽減しつつあったものの、親族への被害妄想に対する精神療法は効果的には進展しておらず、右被害妄想は依然として残存していたこと、(ニ) Iは本件無断離院の五日前である四月一四日に詰所を訪れて、職員に対し「いつ退院できるか、逃げるかな―。」と話していたことが認められる。

以上の事実によれば、遠藤、小井田、前田等の北陽病院の医師、看護士らは、本件無断離院当時、Iの本件無断離院を予見することは充分に可能であったということができる。

(二)(1)  被告は、本件無断離院当時、Iの症状が不完全寛解状態にあったことなどを理由に、本件無断離院は予見不可能であった旨主張するが、前掲各証拠によれば、Iの病状は一直線に回復に向かっていたわけではなく、停滞や再燃を繰り返しながら推移していたものであること、不完全寛解状態とは、妄想等の精神症状は残っていても病棟内における集団生活が可能な状態をいうにすぎないことが認められる。そして、Iの場合、離院の主たる動機は被害妄想により形成された親族への復讐の念と自由への欲求なのであるから、イライラ感や集団への適応状態といった表面的な精神症状の改善と離院の可能性の程度が必ずしも対応しないというべきであるから、被告の右主張は理由がない。

(2)  また、被告は、Iが四月一四日に詰所を訪れて離院の意思を述べたことに関して、Iが翌一五日、医師の診察に際し逃げる意思の有無を問われて「逃げない。」旨答えたことを根拠に、離院の可能性は予見不可能であった旨主張するが、離院という事柄の性質上、患者本人が離院の意思を否定したからといって、主治医らにおいて直ちにその可能性がなくなったと判断すべきでないことはいうまでもないから、この点に関する被告の右主張も理由がない。

3 本件殺人事件の予見可能性について

(一)  前記一1で認定した事実及び前掲各証拠によれば、(イ) Iは他害のおそれがあるとして措置入院させられた患者であって、措置入院当時、その性格特徴は爆発的で攻撃的であると診断されていたこと、(ロ) 本件無断離院当時もIの措置入院は継続していて、主治医の小井田も親族への被害妄想の点を見極めないと措置は外せないと考えていたこと、(ハ) Iは、親族への恨みや加害の意図を公言してはばからず、昭和六〇年八月三〇日の診察の際には兄弟について「仲悪い、ぶっ殺してやる。」と発言しており、同年一〇月一四日と一一月二五日には叔父に対する恨みがあると医師に述べ、さらに、本件無断離院の約一か月前である昭和六一年三月一四日には、医師の診察に際し、固い表情で外泊を要求した上、「父、家族等また殺したいと思うことある。説明は、ちょっとできない。」と述べていること、(二) Iは第一回目離院の際には実際に叔父を殴りに行っていること、(ホ) Iには窃盗の前科が多数あり、第一回目離院の際にも現金、食料品等を盗んでおり、このことは小井田も了知していたこと、(ヘ) Iには銃砲刀剣類所持等取締法違反二犯と公務執行妨害の前科があり、右前科はそれぞれ本件殺人事件の凶器と類似の登山ナイフや短刀を所持していたという事案と職務質問した警察官を崖から突き落としたという事案に関するものであるところ、右の事実は八王子医療刑務所から北陽病院に送付された通報票に記載されていて、右通報票は北陽病院におけるIのカルテに添付されており、小井田等北陽病院の医師には充分認識可能であったこと、(ト) Iは北陽病院内においても些細なことから被害意識を抱いて立腹し、他の患者の顔を殴るなどの問題行動を頻繁に起こしていて、その回数は合計七回に上り(最終の加害行為は本件無断離院直前の昭和六一年三月二七日)、右問題行動後は、「殴ってすっきりした。」と医師に対し述べるなどしていて、第三者に対する加害行為について心理的抵抗が少ないという傾向を有すること、(チ) Iはもともとイライラ感や不眠の症状が強い患者であり、向精神薬が二度増量された結果、右のような症状は改善されつつあったものの、第一回目無断離院の際には四日間服薬しなかったせいで、保護された時には目がぎらぎらしていて病状が悪化していたということがあり、小井田もIが無断離院した場合、薬が切れて右のとおり病状が悪化する可能性が大きいことは認識していたこと、(リ) 本件殺人事件当時、Iは精神分裂病に基づく中等度の欠陥状態にあり、著しい感情の冷却・鈍磨、思考の形式的障害を伴っていたことが認められる。

以上の事実を総合すれば、本件無断離院当時、小井田を始めとする北陽病院の医師、看護士らは、Iが無断離院した場合、第三者を殺傷する蓋然性が高いことを充分予見し得たものというべきである。

(二)(1)  被告は、「Iは経済的な措置入院患者であるから、本件無断離院当時、既に他害のおそれはなかった者である。」旨主張するが、この事実を認めるに足りる的確な証拠はない。

(2)  また、被告は、「Iの攻撃性は専ら親族にのみ向けられていたものであるから、第三者への殺傷行為は予見不可能であった。」旨主張するが、前記認定のとおり、Iは警察官や他の患者等、親族以外の者に対しても攻撃性を発揮していたものであって、しかもこのことを小井田らは現に認識し、あるいは認識し得たのであるから、被告の右主張は理由がない。

(3)  さらに、被告は、Iは過去に凶器により他人を殺傷したことはないということを根拠に、本件殺人事件は予見不可能であった旨主張するけれども、前記認定のとおり、Iは第三者に対する加害行為について心理的抵抗が少ないという傾向を有していた上、精神分裂病による欠陥状態にあって、しかもナイフ等の凶器の所持及び窃盗の前科を多数有するものであるから、このような者が、離院して服薬を中断し、病状が悪化した場合、金に困って財産犯を計画し、その際感情の冷却・鈍磨や思考障害等の影響で、短絡的に凶器を使用した強盗殺人等の行為に及ぶ蓋然性が高いということは、本件無断離院当時予見可能であったというべきである。

したがって、被告の右主張も理由がない。

二争点2(回避可能性)について

1  本件無断離院時の状況等

前記第二の一の事実及び証拠(<書証番号略>、証人小井田潤一、同前田敏雄)によれば、以下の事実が認められる。

(一) 本件無断離院当日、作業療法の一環としての院外散歩に参加した患者は二五名で、そのうち措置入院患者はIほか一名の合計二名であったが、無断離院の前歴を有する者はIのみであった。右院外散歩の引率には小山田、前田、菅原及び田頭の四名が当たったが、右四名の具体的な役割分担は決められていなかった。また、右引率者のリーダーである小山田は看護科から措置入院患者に対する一般的注意は受けていたけども、医師からI等個別の患者についての具体的注意事項等は何ら指示されてはいなかった。さらに、北陽病院においては作業療法に関し、無断離院のおそれのある要注意患者に対する特別の看護態勢は定められていなかった。

このため前田らは、患者の行列の前後、中間に偏らないよう入り、全患者を観察すればよいという程度の認識の下に、毎日のことなので特定の患者を重点的に観察、看護するということもなく、午前九時四〇分ころ本件院外散歩に出発した。

(二) 本件院外散歩は、一戸バイパスから農免道路馬場松線を通り、養蚕試験場に向けて途中まで通常通り実施されていたが、午前一〇時ころ、本件無断離院の現場である山火長五郎方近くにさしかかった際、患者の一人が体調が悪くなって遅れたため、行列が三つの集団に分かれて前後七〇ないし八〇メートルの範囲に伸びてしまった。この時、行列の先頭には小山田がおり、先頭の患者一七名程度の集団の中央付近に田頭が、第二集団の患者三名と第三集団の患者四名のほぼ中間地点に前田が、第三集団の後尾には菅原がいた。そして、前田が先頭の小山田に対し、待つように呼び掛けたため、先頭集団は本件無断離院に当たり使用されたライトバンの付近でいったん停止したが、しばらくしてから後方の患者が追いつくのを待たずに再び前進を開始した。Iは当初行列の中ほどを歩いていたが、行列が三つの集団に分かれた際には先頭集団の後方に位置し、集団の中間付近にいた田頭よりも後ろにいた。Iは、先頭集団が再び動き出し、田頭が前方に進んだ後に、ライトバンに乗り込んだが、田頭はこれに全く気付かず、患者の藤森光男が車に乗り込んだIに対して「これだもんなあ。」と言ったことから初めてIがライトバンに乗り込んだことを知った。また、Iの後方にいた前田も、当初Iの乗車には全く気付かず、ライトバンの二〇メートル手前付近で誰かが乗車していることに気付いた後も、Iに似ているなどと考えながらライトバンに近づき、乗車しているのがIであることを知ったのは、Iが車を発進させるとほぼ同時であった。

(三) Iが逃走後、小山田と菅原は直ちに追いかけたが一戸町内で見失い、田頭は近所の民家から電話で右事実を北陽病院に連絡した。これを受けて小井田は、午前一〇時七分ころから看護者四名とともに三台の自動車を使用して一戸町内等を捜索したが発見できなかったため、午前一〇時三〇分ころ二戸警察署にIの保護を要請すると同時に、二戸保健所に右事故を通報した。

2  結果回避義務と回避可能性

(一) なるほど、精神障害者の治療方法の選択は、第一次的には主治医の裁量に属すべき事項であり、このことは作業療法の選択においても同様であるが、他害のおそれのある措置入院患者については、作業療法はあくまでも治療的管理下において行われなければならないというべきである(<書証番号略>)。

そして、Iは、前記一のとおり、本件無断離院当時、措置入院中であって、措置入院の原因となった親族に対する根強い妄想に基づく復讐の念を依然として有していたばかりでなく、約一〇か月前には無断離院した経歴を有し、しかも本件無断離院の直前には詰所を訪れて離院の意思を述べていたものであるから、このような患者を医療的判断に基づき院外散歩に参加させる場合には、主治医が作業療法を担当する看護者に対し散歩の方法、患者と看護者の参加人数、看護態勢等について適切な指示を与えるか、または職員相互の間で患者の症状、動静等に関する申し送りを徹底するかし、無断離院の可能性が高いと考えられる患者については、予め当該患者を重点的に観察、看護すべき担当者を決めてから散歩を実施するなどの作業療法時における適正な看護態勢を確立すべきである。

そして、前記二1で認定した事実によれば、本件無断離院は、本件院外散歩の引率に当たった看護者らが、離院に関する要注意患者であるIについて、路上に自動車が駐車している場合には、Iが乗り込まないように留意するなどの特別の注意を払うか、あるいは北陽病院において、散歩中に行列が縦に延び過ぎるなど不測の自体が発生した場合には、要注意患者を重点的に観察、看護すべき者を予め決めておくなどの何らかの方策が取られていたならば、容易に防止し得たものであるということができる。

(二) しかるに、前記認定のとおり、北陽病院においてはIの主治医小井田からは看護者らに対してIに関する特別の指示は何ら与えられておらず、看護科を通じて措置入院中の患者については注意するようにという一般的指示がなされていたにすぎないし、北陽病院の院長遠藤も、Iが昭和六〇年六月に一度無断離院しているにも拘わらず、その後も離院のおそれのある患者に対する作業療法の実施方法について特別の看護態勢を策定することをせず、作業療法の実施に関する一般的注意を与えていたにすぎなかった。また、小山田及び田頭は、Iが以前自動車を利用して離院した前歴を有する患者であったのに、路上にエンジンキーをつけたまま駐車していたライトバンに対して全く注意を払わず、右車両のすぐ近くで先頭集団の患者を一時停止させた上、後方の患者及び看護者がまだ到着せず、前田が先頭集団の後尾にいた患者を観察、看護することが可能な状態になっていないのに再び前進を始めたものである。そして、前田が到着していない以上、先頭集団の後尾にいた患者に対する観察、看護はその直近にいた田頭がこれを行うべきであって、しかも当時はエンジンキーのついた自動車が路上に駐車していたのであるから、Iの乗車を格別に警戒すべき状況であったにも拘わらず、田頭は右義務を怠り、全くIの動静に注意していなかったものである。また、前田は、前方に自動車が停車していることに気付いてから後もこれに格別の注意を払わず、Iらしき人影を車内に発見してからもIに似ていると考えながら近づいてみるなどの緩慢な行動に終始しており、大声で行列の停止を求めるとか、直ちに走り寄って制止するなどの対応をとっていないものである。

したがって、遠藤、小井田、田頭、小山田、前田らは、以上のとおり、Iの本件無断離院を回避すべき義務に違反したものというべきである。

(三)(1) 被告は、「Iは不完全寛解状態にあったものであるから、同人に対し厳重な看護態勢をとることは治療上の見地から相当ではなかった。」旨主張するが、Iを要注意患者として重点的に看護すべき担当者を定め、行列が縦に延び過ぎるなどの不測の事態が発生した場合には、右担当者がさりげなくIの近くにいてその動静に気を配るようにすることが治療上有害であるとは到底考えられない。しかも、<書証番号略>によれば、北陽病院においては、本件殺人事件の後、無断離院を防止するため、①要注意者一覧表を作成した上、看護者が毎日主治医に患者の病状について報告をし、指示を受けることとする、②散歩コースは当日必ず下見をし、何らかの支障があった場合には、他の安全なコースに変更する、③看護者は要注意者対応の役割分担を決める、などの対策を現に講じていることが認められるのであるから、この点からしても被告の右主張は到底採用することができない。

(2) また、被告は、「患者二五名に対して看護者四名という本件無断離院時の看護態勢は精神病院においてはむしろ平均以上のものであり、看護態勢自体に問題はなかった。」旨主張するが、看護態勢の当否は単に患者と看護者との人数割合のみから判断されるべきものではなく、どのような態勢で看護がなされているかということによって左右されるものであるところ、北陽病院においては、院外散歩に際して要注意患者と一般患者の区別も明確にはされないまま、単に「措置患者には注意するように」「患者の間に偏らずに入るように」といった一般的注意がなされていたにすぎなかったため、散歩中に行列が縦に延び過ぎるといった不測の事態が生じた際に、看護者らにおいて適切な対応ができず、その結果本件無断離院を発生せしめたものであるから、被告の右主張も理由がない。

(3) さらに、被告は、「精神病院においては、一般的に看護者が不足しているから、本件無断離院当時の引率者数を越える割合で引率の看護者を付けることは困難である。」旨主張するが、散歩に参加させるべき患者の人数が多く、かつ要注意の患者が参加するなどの事情から、限られた人数の看護者では患者の観察、看護を充分に行うことが困難であることが予想されるような場合には、散歩を二度に分けて実施するなどの方法をとることも可能なのであるから、現在の精神病院の実情を前提としても、適正な患者と看護者の人数比を維持しつつ作業療法を実施することが不可能であるとはいえない。

なお、被告は、本件無断離院の偶発性を強調するが、被告が主張する偶発性の内容は、前示のとおりいずれも前田、田頭ら看護者の不注意を示すものにほかならないから、本件無断離院の回避可能性を否定し得る事情とは到底なり得ないものである。

三争点3(因果関係)について

被告は、本件殺人事件はIの自由意思に基づき実行されたものであり、Iの病状等の事情に鑑みると、本件無断離院と本件殺人事件の間には相当因果関係を認めることができない旨主張するので、この点について判断する。

証拠(<書証番号略>)によれば、本件殺人事件当時、Iは精神分裂病の影響で、自己の行為の是非善悪を弁識し、これに従って行動する能力が著しく低下していたことが認められるから、本件殺人事件がIの自由意思に基づく犯行であったという被告の主張はその前提を欠くものである。そして、前記一3で認定したとおり、本件無断離院当時において、Iが離院した場合、財産犯の過程で他人を殺傷する蓋然性が高いことは予見可能であったと認められるから、本件無断離院と本件殺人事件の間には相当因果関係があるということができる。

以上の事実によれば、本件殺人事件は被告の公務員である遠藤、小井田らの職務の執行に関する過失により生じたものということができるので、被告は国家賠償法一条一項に基づき本件殺人事件により原告らに生じた損害の賠償責任を負わなければならないものである。

四争点4(損害の発生と数額)について

1  逸失利益

(一) 直樹は、昭和五〇年一一月に国家公務員上級職試験に合格し、翌五一年四月、総理府事務官に任命され、内閣総理大臣官房人事課等での勤務を経て昭和六〇年八月から神奈川県に同県警本部交通部交通規制課長として出向していたものであり、死亡当時満三五歳の健康な男子で、昭和六〇年度には推計で年間六三七万九三八三円(41万3694円×12か月+70万6509円÷2.5×1.9+70万6509円+17万1600円)(小数点以下切捨て、以下、同じ)の給与所得を得ていたものであり、また、直樹の家族構成を勘案すれば、生活費割合は収入の三〇パーセントとするのが相当である(<書証番号略>)。そして、直樹の右経歴、役職等を勘案すれば、直樹は、本件殺人事件がなければ少なくとも定年である満六〇歳までの二五年間、年三パーセント程度の昇給を受けながら公務員として就労し、退職手当てを得て退職した後、日本人の平均稼働年数である満六七歳に達するまでの七年間、民間企業において就労して収入を得ることができたものと認められる。

そこで、直樹の公務員としての給与所得に基づく逸失利益をライプニッツ方式で算出すると、その額は八五〇〇万三八七五円(637万9383円×19.0354×0.7)となる。また、直樹の定年退職時の退職手当の現在額を、直樹の死亡当時の俸給額と年三パーセントの昇給率を基礎にしてライプニッツ方式で算出すると、その金額は一〇一三万八九三三円(28万7700円×1.0325=60万2357円,60万2357円×57×0.2953)となる。さらに、直樹の六〇歳から六七歳までの収入の現在額を、賃金センサス平成元年第一巻第一表産業計・企業規模計の全国性別・学歴別・年齢階級別平均給与額表の男子・新大卒の六〇ないし六七歳の賃金を基礎に、生活費割合を三〇パーセントとして、ライプニッツ方式で計算すると、その金額は八三五万九三九八円(〔714万2500円×1.0471+674万5900円×0.6616〕×0.7)となる。したがって、直樹の逸失利益の総額は、一億〇三五〇万二二〇六円となる。

なお、原告らは、直樹は七六歳まで稼働可能で、その間いわゆる天下りを繰り返して合計四回の退職金を得ることが見込まれるから、その逸失利益の総額は二億〇一二三万七九九一円に上る旨主張するが、右事実を認めるに足りる的確な証拠はない。

(二)(1) 原告京子、同成和及び同靖人が、直樹の死亡により、地方公務員災害補償法に基づいて、昭和六一年六月から毎年二九二万三五〇〇円の遺族補償年金を受領しており、平成四年四月一六日の時点でその合計額が一四六一万七五〇〇円に達することは、当事者間に争いがない。

ところで、地方公務員災害補償法は、地方公務員の公務上の災害又は通勤による災害に対する補償の迅速かつ公正な実施を確保することを目的としており、同法五九条には、第三者の行為による災害について基金が補償を行った場合、基金は、その価額の限度において補償を受けた者が第三者に対して有する損害賠償請求権を取得する旨の定めがあるから、同法に基づく補償がなされた場合には、労災保険法による給付があった場合と同様に、右給付の対象となる損害と民事上の損害賠償の対象となる損害とが同性質である場合に限り、損害が填補されたものとして、被害者が第三者に対して有する民事上の損害賠償請求権は減縮するものというべきである。

そして、遺族補償年金の給付の対象となる損害と同一の性質を有する損害とは、財産的損害のうちの消極損害であると考えられるから、右年金の受給権者である原告京子、同成和及び同靖人の損害賠償請求権は、逸失利益について、右遺族補償年金の既払額である一四六一万七五〇〇円の限度で減縮する。

(2) また、証拠(<書証番号略>)によれば、原告京子が直樹の退職手当として四六四万一〇〇〇四円を受け取っていることが認められるところ、右退職手当は右(一)において逸失利益として算定した定年退職金と同一の性質を有するから、原告京子の損害賠償請求権は、逸失利益について四六四万一〇〇四円の限度で減縮する。

なお、被告は、原告らが地方公務員等共済組合法に基づく遺族共済年金を受領している旨主張するが、その金額については何らの主張、立証をしない。

(三) したがって、被告は右(一)で認定した逸失利益から(二)(1)、(2)の損益相殺をした残額(原告京子は三九八〇万一三四九円、原告成和、同靖人は各二二二二万一一七六円)について損害賠償義務を負うべきである。

2  慰謝料

直樹は、通勤途中に突然Iにより刺殺されたものであって何らの落ち度もなかったこと及び直樹の家族構成等諸般の事情を考慮すると、原告京子、同成和及び同靖人についてそれぞれ五〇〇万円、原告清及び同アイコについてそれぞれ三〇〇万円と算定するのが相当である。

(裁判長裁判官北山元章 裁判官三村晶子 裁判官橋本都月)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例